こんにちは。わらびです。
世界一の人口密度とタレントのローラ、米と魚、日本みたいな国旗、東パキスタン。
そんなイメージしかない国バングラデシュ。
良く分からないままやって来た首都ダッカでは、未だかつてないほどの衝撃体験をすることになります。
ダッカでの衝撃エピソード
世界一の人口密度を誇るバングラデシュ。
中でも首都のダッカにおいてそれは規格外。
喧騒溢れるカオスな街。
溢れすぎて、道行く車は常にクラクションを鳴らし、軽い接触事故なんてもはや当たり前。
トラックの荷台からはみ出た鉄骨か何かが他の車に当たっても誰もお構い無し。
ホテルから出て僅か数分、初っ端から圧倒されてしまいましたが、こんなのはまたまだ序の口。
ダッカで経験した衝撃的なエピソードをいくつか紹介していきます。
世界最悪の交通マナー
海外の交通マナーは、日本と比べるとかなり悪い。
かの有名な名古屋走りなんてまだお行儀の良いほう。
道路を渡る際は、地元民を楯にし横断を試みるというのは当たり前。
旅行者の常識です。
しかし、ダッカにおいては地元民ですらバンバン轢かれてしまうので、おいそれと地元民ガードが使えません。
どれほど交通事故が多いのか、それは路上で物乞いする人たちの多さが物語っています。
彼らの多くは、手足のない人。
あったとしても、変な方向に折れ曲がり、まともに機能していないので筋肉も衰え枝のように細くなっています。
今まで色々な地域に行きましたが、ダッカでは路上で物乞いする障害者の数が圧倒的。
中には生まれつきの人もいるのでしょう。
しかしその殆どは、交通事故で運良く…なのかな?
生き残ってしまった側の人たち。
頭と胴体にダメージを負ったら亡くなるでしょうし。
何故ここまで交通事故が多いのか?
まあ単純に交通ルールが一切守られていないからで、交通マナーが悪いというより、誰もルールを守らず好き勝手走る無法地帯。
鉄の塊が行き交う中、誰一人遵法精神が無いので、最も被害を被るのが生身の人間。
車両同士ぶつかったらただじゃ済まないので流石にブレーキを踏む。
しかしこれが人間相手だとどうなるでしょう?
人間相手じゃ車両側が負うダメージはほとんどないのでそのまま撥ねる。
だいたいそんな感じ。
運転手も別に好き好んで人を轢きたい訳ではないでしょうけど、走行中前に人がいても、そもそも止まるという思考に至らないのです。
日本に限らず世界のどこの国でも、目の前に人が出てきたら反射的にブレーキを踏むことでしょう。
しかし、バングラデシュではクラクションを鳴らすだけで、自分が避けたりブレーキを踏むということは無いようです。
倫理観が欠落しまくっている隣国のインドですら、人がいたらブレーキを踏むというのに…
事実、私は何度か自転車に轢かれました。
速度を落とし停車しようとしている自転車の前を渡ろうとしたら、なんの躊躇いもなく突っ込んできたり、後ろからクラクションを鳴らしながらぶつかってくるなど。
本当に、人を躊躇なく轢く。
また、自転車などの軽車両は、前の車両とゼロ距離で停車するのが当たり前。
海外ではよく間をすり抜けたりしますが、ダッカではそこに人がいても、後続の車両が突っ込んできます。
轢かれたあとに、「なんだコイツ?」みたいな目で見られましたが、それはこっちも同じ。
海外の文化云々以前に、これは否定されて然るべき悪習。
空港でもありましたが、荷物のカートでも平然と人に突っ込むか、前の人に軽く当てて停めるという事があります。
カートも車輪がついている以上は乗り物扱いなのでしょう。
空港で何度かカートをぶつけられた理由がダッカの街に出て判明しました。
いやまあ理由が分かったところで全然納得できないんですけどね。
人間性なのか倫理観なのか、何かが欠落している。
人間とは何か?
海外の恐怖体験や衝撃エピソードなんて、売春宿突撃や近くで銃を撃っていたとかその程度。
所詮はありきたりで、ドキュメンタリーもどきのよう。
聞いたところで目新しさも無いものばかり。
今まで自分のしてきたのもそんな体験ばかり。
ですが今回私は、誰も聞いたことが無いような、想像を絶する衝撃的な体験をすることになります。
ダッカの次の目的地は紅茶の産地「スリマンガル」。
バスを使って移動するので、街の中心にあるバスターミナルにチケットを買いにやってきました。
とりあえず、スリマンガルと連呼していたらチケット売り場は簡単に見つかりました。
チケットを売っているのはおじさん。
彼に行き先と日付を伝えようとしましたが、ここからが超大変。
このターミナルでは、何故かびっくりするほど英語が通じないのです。
法律で禁止されているのか?
というくらい、話せるどころか簡単な単語を知っている人すらいない。
行き先と明日のチケットが欲しいと言っても、スリマンガルだけが伝わり、明日の部分が絶対に伝わらない。
Google翻訳を使おうにも、何故か敷地内だけ見事に圏外。
ターミナルの外ではちゃんとし通じることから、意図的に電波が遮断されているようにも感じました。
この後の出来事も相まって、このターミナルは、一種の隔離施設のような役割を果たしているのではないかと考えています。
闇が深い…
埒が明かないので、ターミナル内で英語のできる人、もしくはスマートフォンを持っている人を30分ほど探し回りましたが…、
まさかのゼロ。
英語はともかく、このご時世スマートフォンを持っていない人がこんなに…
ちょっと理解の追いつかない現状にドン引き。
仕方がないので、おじさんに対し「トゥモロー!トゥモロー!」と大声で連呼。
ついでに、手の甲に翌日の日付を書いて見せつける。
すると相手はどうでしょう?
何度も何度もピッチの画面で今日の日付を見せてくるのです。
だからこっちは明日のチケットが欲しいんだって!
駄々をこねる子どものように、何度も何度もトゥモローと喉が枯れるくらい叫び続け、手に書いた翌日の日付を見せつける。
こちらが「トゥ、モ、ローーッ!」と叫べば、
相手は分かったからと言わんばかりに「スリマンガル!」と返してくる。
全然分かっていない。耳腐ってるの?
流石にこれだけ騒ぎ立てていれば周囲から人も集まってきます。
誰か英語が分かる人がいるのではないか?
一抹の希望を抱きながら、
「スリマンガル!トゥ、モ、ローーーッ!!」
と大声で叫び続ける。
ただの気狂い。
続々集まってきた人たちに対しても、「スリマンガル」という行き先はしっかり伝わる。
しかし「トゥモロー」だけはどうしても伝わらない。
何故かトゥモローもスリマンガルと認識されてしまう。
これじゃただ行き先を連呼しているだけの変な人。
決して2つの単語は発音が近いわけでもなく、文字数が同じでもない。
はてさて、これ如何に?
まあ実はこれ、しっかりとした理由があるらしく、人間の脳の未知のものを認識できないという性質が関係しているみたい。
例えば、昔の日本での出来事。
浦賀に黒船でペリーさんが来航したとき、それはもう大きな騒ぎになりました。
でも何故かこの時、海に浮かぶ黒船の存在を、認識できなかった人が多くいたとされています。
これは、黒船が当時の日本人の知る船と大きくかけ離れていたため、未知の概念として認識できなかったんだそう。
これは言語も同じ。
相手にとって「トゥモロー」というのは知らない言葉なので、それが何を示すか分からない。
意味のある言葉として認識できないので、そもそも脳が自動的に「スリマンガル」と変換してしまう。
そもそも、相手にはトゥモローとすら聞こえていなかった。
経験則として、意味が分からずとも、ちゃんと聞こえていれば「トゥモロー?」といった感じで聞き返されますし。
知能に差がある場合会話が成立しない。という俗説があるが、あながち嘘でもないんですね。
といってもこれは、現代社会では起こりにくいこと。
未開の部族ならまだしも、一国の首都でこんな事が起こるなんて…、
まあ、このターミナル内は、電波も届かず誰一人としてスマートフォンを持っていないし、あり得なくもないんだけど。
しかし、翌日の日付を見せても、全く伝わらないというのは少し不可解。
ただひたすら、トゥモローと連呼するしかない。
壊れたスピーカのような悲しき機械に成り下がろうかというその時…!
私の手の甲を見た一人の若者が何かに気付いたように「チュモロー!」と大声を出す。
そう、バングラデシュでは「トゥモロー」ではなく「チュモロー」と発音するみたいです。
他の人も意味は分かっていないみたいだけど、一人に伝わりさえすればあとはなんとかなる。
しばし自分もチュモローチュモローと周囲の人たちと喜びを分かち合う。
明日という部分が伝わったらあとは簡単。
周りの人たちがベンガル語でおじさんに私の要望を伝えてくれた…、
と思いきや、何か言い争うような、全く話が伝わってないような雰囲気。
お前ら本当に同じ言語で話してるの?
結局、何故か会社の名刺を渡され、そこに書かれている番号に電話してなんとかしろ。
みたいな感じのことになりました。
むしろお前がなんとかするべきだろう。
塩対応にもほどがある。
こんな塩対応されたら、もうこれ以上どうしようもない。
このバスターミナルは少々闇が深すぎるので、今度は敷地の外にある別の会社のチケット売り場へ向かいます。
ターミナルの外で見つけたバスのチケット売り場では、係の若者に話しかけると、どうやら彼も英語ができない様子でした。
しかしこちらはもうチュモローも知っているので、今更どうということもない。
でも何故かここで、自分に任せろと謎のおじさんが出現し、横入りする。
よく、バングラデシュ人は親切というが、このおじさんがまさにそれ。
ちなみに、このおじさんも英語は全くできなかった。
邪魔。
無意味に謎のおじさんを挟んでやり取りが開始。
前の出来事もあったので、何度も何度も
「チュモロー、いいか?チュモローだぞ」
と、犬猫を教育するように、執拗に同じことを繰り返し伝える。
手の甲に書かれた翌日の日付を見せ、とにかく徹底的に明日のチケットが欲しいと強調。
おじさんは、「分かった分かったと」全然理解していない様子で話を進めようとするので、念には念を押し、ほぼ脅し同然にチュモローと強調して伝えます。
びっくりするほど何度もチュモローと言ったし、手の甲に書いた日付も見せた。
流石にこれなら大丈夫だろうと思い安堵。
しかし、購入したチケットは何故か今日の日付になっていました。
…いやもう、これには絶句。
あれだけ執拗に、何度も何度も脅すように伝えたというのに。
今度はおじさんを挟まず、若者に直接、チュモローと言いながら手の甲を見せたら簡単に伝わりました…
超簡単。
おじさんはただの邪魔でしかなかったようです。
間違ったおじさんは、若者からどつかれ、困ったように頭を掻くだけ。
なんだコイツ?
まあ結局のところ、信じられない話かもせれませんが、この日あったおじさんたちは、
「明日」という概念を理解できない人
だったのです。
……、
言ってる事が分からないかもしれない。
だけど言葉通り、おじさんたちには「明日」という概念が理解できなかったのです。
明日という概念が理解できないので、同じ言語で伝えられても意味が分からない。
翌日の日付を見せられても、それが何なのか分からないといったところでしょう。
頭が悪いとも違う、説明が難解すぎる未だかつてない存在。
あまりにも衝撃的で意味不明ですが、世界にはそういう人達がいるのです。
バングラデシュでは成人の半数以上が読み書きをできないとされています。
読み書きなんてある程度の教育を受ければできること。
しかし、この国にはそのある程度の教育を受けれない人が沢山いて、それが少し前の世代ともなるとより顕著に現れる。
教育を受けれないならまだしも、人間として生きることができなかったのか、意思疎通が難しいという人もいます。
今回のおじさんも、ターミナルのチケット売り場のおじさんもそうでしょう。
バングラデシュには敬虔なイスラム教徒が多いので、明日や日にちという概念は理解できずとも、曜日感覚は理解しているのかもしれません。
海外で字の読み書きができないという人にはたまに出会います。
日本語でも難しい漢字や聞き慣れない表現は沢山あるし、まあそれに関してもなんとなく理解できます。
しかし、普通に生きていれば、いや仮に普通に生きてこなくとも分かるような「明日」という概念。
彼らは人間として生きることが許されなかったのでしょうか?
流暢に喋れるけど、言葉は知らない。
言葉は扱えるものの、必要最低限の知識すら持ち合わせていない。
なんと表現すればいいのか、説明が難しい未知の存在。
明日という概念を理解できず、人間としてあまりにも多くのことが欠如している。
それでも、バングラデシュの国民性である親切心は持ち合わせているというのは本当に意味が分からない。
彼らに関して、まるで動物と人間が混じり合ったような「衣服を纏った動物」という印象を受けました。
他にもあったのが、汚水で口を濯ぐホームレス。
ダッカの道路脇の溝。
そこには生ゴミ、生活排水、オイルなどあらゆるものが詰め込まれ、灰色に濁った汚水は、悪臭を放ち触れただけで病気になりそう。
あろうことか、ホームレスの男性がその汚水を手で掬い、口を濯いでいたのです。
もう逆に汚すぎて菌とか繁殖できないのでしょうけど、本当にその様子は、人間ではなく動物としか表現しようがない。
野良犬が水溜りや汚水を飲んでいるのを見かけることがありますが、まるで、汚水を飲む動物が口を濯ぐという人間の習慣を真似ているようでした。
少なくとも、普通の人間であれば、汚水を口に含むどころか、触れるという考えには決して至らないでしょう。
彼らのような存在は、殆どの人にとって未知なので上手く説明できません。
人間として生きれず育ったらこうなるんだ
という、そんな感想。
形は人だけど、それが何か理解を拒む。
そんな不思議な感覚です。
おわり
人間とは何か?
既存の価値観が揺らぎに揺らぐカオスな街ダッカ。
計算ができない、字の読み書きができない、倫理観が欠如している。
そんな人達には今まで何度か出会ったことがあるし、何なら先進国にもいる。
インドでは人生観が変わるとか言いますけど、バングラデシュでは、どう説明したらいいのか分からない新たな概念に遭遇します。
「明日」とは何か知らない人。
そんな人がこの世に存在するなんて…、ただひたすらに困惑するばかり。
すごい所に来てしまったものです。
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