こんにちわ。わらびです。
ベトナム戦争ではテト攻勢と共に世界に衝撃を与えたソンミ村虐殺事件。
ここへ訪れる観光客は、アメリカ人を除けばそこまで多くないそうですが、リーソンへと向かう道中にあったので、事件跡地に作られた記念館へと足を運んできました。
ソンミ村虐殺記念館
「ソンミ村虐殺記念館」は、クアンガイ省ソンミ村で1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件跡地に作られた記念館。場所が場所なので、ベトナム観光で訪れる人はあまりいないかと思われます。
このソンミ村虐殺事件というのは、ベトナム戦争ではテト攻勢と並び、世界に大きな衝撃を与え反戦運動を激化させた事件です。
展示写真のほとんどが遺体のため、当ブログには載せませんが、簡単に調べることができるので気になる方は是非。
アクセスと入場料
記念館はアクセスの起点となるクアンガイという町から約10㎞の距離にあります。一応、一日に何度かバスが通りますが、ほとんどタイミングは合わないと思うのでアクセスはGrab一択。
Grabの料金は50,000VND=300円前後。
記念館の料金は20,000VND=120円となっています。
注意点
ソンミ虐殺記念館は、ある理由からGrabのマップには表示されません。Googleマップで場所を照らし合わせながら場所を確認する必要があります。Googleマップからも定期的に削除されるため地元の人に聞いた方が早いかもしれません。
また、記念館周辺からGrabを手配することは難しいので、そこらを走るバイクを捕まえて料金交渉してクアンガイまで戻るか、数時間に1本のバスに乗るかになります。
事件の概要
「ソンミ村事件」は、ベトナム戦争中の1968年3月16日に、南ベトナムのクアンガイ省ソンミ村(ミライ村とも)でアメリカ軍が行った民間人虐殺事件。約4時間の間に504人の民間人が失われました。
ベトナム戦争では数多くの虐殺が起きたとされていますが、この事件は特に規模が大きく、アメリカ軍が正式に虐殺であると認め、関係者を有罪にした事件です。
虐殺の中心となった「ウィリアム・カーリー中尉」率いる中隊は、住民に対して無差別な暴力を振るい、強姦、銃撃、そして村の徹底的な破壊を行いました。中隊の兵士は、上官から「敵の村を一掃せよ」と命じられたと証言していますが、その命令がどの程度具体的なものであったかは裁判で議論の的となりました。
当初、彼らは民族戦線兵士とその支持者を掃討するための作戦行動だと認識していましたが、村にいたのは無関係な非戦闘員のみ。被害者のほとんどが老人と女性、子供で若い男性はほとんどいませんでした。
村に到着した兵士たちは、上官からの命令に従い無関係な人々を用水路に突き落とし銃撃を浴びせ、井戸やバンカーに詰め込みその中に手榴弾を放り込みました。そこに老若男女の区別はなく、赤子だろうと問答無用で殺害。村を焼き払い家畜も殺す、そこにあるすべてを徹底的に破壊しました。
ソンミ村虐殺事件では最も有名な写真。
右側の黒い服を着ている女性は、暴行を受け乱れた衣服を直しています。この写真が撮られた直後に彼らは銃殺されました。
村には民族戦線の兵士がいないどころか、何の抵抗を受けていないにもかかわらず、中隊は支援を要請し被害は近隣の村にも拡大しました。
この作戦でアメリカ軍側が被った被害は、虐殺への加担を拒否するために自信の足を打ち抜いた兵士一人だけ。
事件の発覚
作戦に参加した複数の兵士から虐殺の報告はされていましたが、この一件が反戦運動の激化につながると危惧した軍上層部は、解放民族戦線のゲリラ部隊との戦闘として虚偽の報告を行い事件を隠蔽をし続けました。
写真の撮影者である陸軍カメラマンの「ロナルド・ヒーバリー」は、身の安全のために、除隊後もしばらくは事件に関しては公言しませんでしたが、1969年11月に写真をライフ誌に提供。
その後、フリージャーナリストの「シーモア・ハッシュ」が真相を告発したことにより事件が明るみになりました。
これは事件から1年9か月後の事でした。
虐殺を止めようとした兵士
ソンミ村では、多くのアメリカ軍兵士が虐殺に加担した一方で、それを止めようとした勇気ある人間もいました。
それが、「ヒュー・トンプソン」、「ローレンス・コルバーン」、「グレン・アンドレオッタ」の3名。
事件当日、ヘリの操縦士トンプソンは作戦の支援ためソンミ村へ向かうも、上空から村人が次々と殺害されていくのを目撃しました。彼は地上で何が起きているかしばらく理解できませんでしたが、民間人が無差別に殺害されていることに気付き、虐殺を止めるべく地上に着陸しました。
トンプソンは用水路に突き落とされていた村人たち救出するため、近くにいた兵士に協力を求めるも拒否を受けます。次いで指揮官のカリー中尉に対して攻撃をやめるよう強く抗議しましたが、要領の得ない返答しか得ることができませんでした。
一度はその場を後にし離陸するも、再び攻撃が開始されたため、ヘリコプターを兵士と民間人の間に着陸させ制止に入り、クルーの2人に対し「もし自分や村人が攻撃されたら、アメリカ兵であろうと撃つように」と命令を残し村人たちの救出を開始しました。
トンプソンは、今まさに村人たちを殺害しようとするアメリカ兵士に対し、「攻撃をやめなければこちらが撃つ」と銃を向けて警告を発し、バンカーに押し込まれた村人たち10数名を救出、ヘリで安全なところまで避難させました。
彼は帰投後、虐殺の事実を上官に報告し、この一件は軍上層部にも伝わることになりました。
同じアメリカ軍兵士に対し銃を向けたトンプソン。当時は、上官の殺害も頻繁に起きていたため、同様の事態が起こるのを危惧した指揮官は作戦の中止を決定しました。
彼の勇気ある行動は虐殺の拡大を防ぎ、多くの命を救ったとされています。
しかし事件発覚後、一部からは、仲間に銃を向けベトナム人を助け彼らを裏切り者として糾弾する声も上がりました。
事件のその後
事件から2年後の1970年5月、部隊の指揮を執っていたウィリアム・カリー中尉と虐殺に加担したとされる兵士13名が軍法会議にかけられました。
この裁判で最大の争点となったのが、作戦前夜に「アーネスト・メディナ大尉」によって下された命令の解釈範囲。
カリー中尉は下された命令を「すべて殺せ」と解釈したのに対し、メディナ大尉は「すべての敵を殺せ」という命令だったと主張。
判決によりカリー中尉は虐殺の責任を問われ、殺人罪で終身刑判決を受けましたが、後に10年に減刑された上、74年には仮釈放。実質的には3年余りの自宅軟禁という軽い処罰に留まりました。
メディナ大尉は免訴、虐殺に関わった他13名は証拠不十分により無罪。他の関係者もほとんどが免責され、軍上層部の責任も追及されませんでした。この不十分な処罰は、さらに多くの批判を招きました。
ウィリアム・カリーは2024年4月に亡くなりました。それは、私がソンミ村を訪れた一か月後のこと。
ソンミ村の現在
ソンミ村記念館は配車アプリのGrabには表示されず、Googleマップの方からは定期的に削除されています。
これは、アメリカとの経済的関係を良好に保ちたいベトナム政府の意思が原因とされています。
ベトナム戦争終結から20年後の1995年に両国は国交を回復して以来、東南アジアの新たなマーケットとしてアメリカ企業も多く進出し、投資先としても注目されています。
ベトナムにとっても国の発展には欠かせない重要なパートナーであり、中国という共通の敵を前に、より強固な関係を結ぶことが望まれています。
しかし、このソンミ村の事件は、ベトナム国民が反米感情を抱きかねない厄介ごとの種。
あくまでも経済利益を重視するベトナム政府は、この事件のみならずベトナム戦争自体を、もはや過去の事として忘れてしまいたいというのが本音なのか、生存者の声を表面に露出させるのも避けているそうです。
生存者からすると何ともやりきれないでしょう…
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