こんばんわ。わらびです。
カンパラから夜行バスでやって来たルワンダの首都キガリ。ここの観光ではルワンダ虐殺関連の観光のメインになります。
そもそも皆さんは「ルワンダ虐殺」という事件を御存じでしょうか?
最近では関連施設が世界遺産に登録されましたが、おそらくそこまで知名度は高くないので知らない人も多いかと思います。
この事件が起きたのは今から30年前の1994年。ルワンダに住むツチ族が100日間で100万人近く虐殺されたという信じられない出来事。
キガリでは以下の4カ所を観光してきました。
- ベルギー平和部隊記念碑
- キガリ虐殺記念館
- ニャマタ虐殺記念館
- ナイアンザジェノサイドメモリアル
今回は市内にある「ベルギー平和部隊記念碑」と「キガリ虐殺記念館」の2か所について紹介。
ルワンダ虐殺とは?
「ルワンダ虐殺」は、1994年にルワンダで発生した大規模な民族間の虐殺事件。
少数派であるツチ族の人々が、多数派であるフツ族の過激派によって組織的に殺害された大量虐殺でした。虐殺は約100日間にわたり行われ、80~100万人以上が殺害されたと推定されています。
1994年4月6日、ルワンダとブルンジの大統領が乗った飛行機が爆破され死亡したことが虐殺の発端となり、この事件をきっかけに、ラジオでツチ族の虐殺を扇動する放送が行われ、ツチ族の殺害に対して報奨金や武器の供給も行われていました。
国際連合もこの虐殺を認知しておきながら介入を躊躇。虐殺を黙認するという結果となり被害が広まりました。
これほどの大きな事件にもかかわらず、いまいち知名度の低いルワンダ虐殺。映画などにもなっていますが、あまり有名にならない理由は主にふたつ。
一つは、同時期に行われていたユーゴスラビア紛争。
ソ連崩壊という歴史的大事件後、同じ社会主義国家の動向に注目が集まる中本格化した紛争で、長期間に渡ったこともあり世界の注目の的になりました。これには国際連合も積極的に介入を行っていました。
もうひとつは国際社会が虐殺を黙認したという事実。
ルワンダはアフリカの貧しい小国。資源も乏しく裕福な国でも無いのでこの国がどうなろうと経済的に大きな影響はありません。虐殺の初期に国連所属の兵士が殺害されたこともあり国連は不介入を決め虐殺を黙認。ルワンダは国際社会から完全に見捨てられてしまったのです。
そういった経緯から、どの国もできればこのことに触れたくないというのが現状。
フツ族とツチ族
ルワンダに住むふたつの民族「フツ族(加害側)」と「ツチ族(被害側)」。(超少数派のトゥワ族もいますがここでは省略)
もともとルワンダには一つの民族しか住んでいなかったとされ、これらの民族はベルギーが植民地支配を効率的に行うために作りだしたものとされています。
一応、支配層の牧畜遊牧民(後のツチ族)と農耕を営む被支配層(後のフツ族)という立場の違いはありましたが、両者に人種的な違いはなく話す言葉も信仰する宗教も同じ。あくまで社会における役割の差でお互いに共存していました。
しかし、これではベルギーが支配する上では都合が悪かった。植民地支配では鉄則となる「分断統治」が行えない。
分断統治とは、植民地支配などでは鉄則となる支配方法。宗教や民族、言語の違いにより被支配者たちを隔て、一方を優遇することで団結を妨げ争わせることで、支配層に反抗できなくする方法。少数側が優遇されることが多いので、独立後は支配層の後ろ盾を失い迫害される。イギリスが行ったインドとパキスタンの宗教対立、ミャンマーの少数民族問題などが有名。
新たな民族を作り出す方法は非常に曖昧なもの。あくまで民族対立を引き起こすのが目的なので人々の出自なんてものはどうでも良かったのです。
鼻の高い者、牛を10頭以上飼っている者を「ツチ族」。それ以外の者を「フツ族」と強制的に定義付けられました。国民には自らの所属を示す身分証を常に携帯させることを義務付け、民族意識を植え付けたのです。
そして、ベルギーの植民地化では少数派であるツチ族を優遇し社会の要職に付け、フツ族を冷遇しました。
当然冷遇されるフツ側は現状を変えるべく、ツチ族に対して協力を呼びかけベルギーの打倒を目論見ます。ツチ族側からすると、ベルギーの支配下では裕福で良い暮らしが出来るので協力を拒みます。
そうしてツチとフツの間に差別意識と対立が生み出されました。これはベルギーの支配下に留まらず、ルワンダが独立した後も根強く残り虐殺に繋がります。
ベルギー平和部隊記念碑
ルワンダ虐殺の被害が大きく拡大するきっかけとなった事件。国連所属「UNAMIR(国際連合ルワンダ支援団)」のベルギー兵士10名の殺害。
虐殺のきっかけとなった大統領の暗殺後、事態の鎮静化を図るためにウィリンジイマナ首相を護衛していたベルギー人の兵士たち。彼らは大統領暗殺にベルギー人が関与していると疑われ大統領警護隊によって殺害されました。
多くの縦断の跡が残る白い壁の建物。
警護舞台に武装解除を命じられたベルギー人兵士たちは、この場に連れてこられ、拷問を受けて殺害されました。
ルワンダ虐殺は以前から入念に計画されていたという話もあります。
虐殺の前年、1993年にソマリアで起きた米兵の死亡及びその死体が市内を引きずり回されるという事件を受けて、アメリカが国外の治安維持への介入に対し消極的になっていました。
虐殺をスムーズに進めるため国連軍の介入を防ぐ目的で、見せしめ的にベルギー人兵士を殺害したのではないかともいわれています。事実、この事件を受けて国連はルワンダから部隊を撤退させ虐殺被害が拡大しました。
建物内の黒板にはUNAMIR司令官のロメオ・ダレールの名前と髑髏の落書き。一番左端には殺害された10名のベルギー兵士が積み重なった様子が描かれています。
庭には殺害された兵士を追悼する人数分のモニュメントが建てられています。
キガリ虐殺記念館
2004年に虐殺の悲劇を伝えるために作られた「キガリ虐殺記念館」。虐殺関連では最大の博物館となっています。
見晴らしの良い丘の上に作られた記念館は、25万人の被害者が埋葬される共同墓地でもあります。
入場料は無料ですが、オーディオガイドと内部の写真撮影は有料となっています。
博物館に入る前はまず生還者のインタビュー動画を見ます。
とある生還者のインタビューが印象的で、虐殺後家に帰ってくるとそこには自分の父の遺体があり、彼の父は自分の遺体が遺族に発見されるようにと、相手にお金を払い自分の家で殺してもらったそうです。
被害者の中には自分の死の運命を受け入れていた人も多く、せめて死に方や死に場所を選ぼうとしていた人も。
博物館の展示は、民族分断に至った経緯、殺害に使われた鉈などの農機具、実際の写真、遺品や遺骨。
どれも非常に衝撃的なものばかり。中でも印象的だったのが子供たちの顔写真パネル。
笑顔で写る子供たちの写真の下には、名前や享年時の年齢、好きな事や将来の夢。殺害方法までも書かれていました。
強い憎しみが根底にある虐殺では、例え対象が子供であろうと残酷な方法で殺害が行われ、小さな子供を何度も壁にたたきつける。祖母の腕に抱かれた幼児の頭に鉈を振り下ろすなど…
おわり
既に自分が生まれていた時にこのような悲惨な事件が起きていたとは衝撃的。もともとある程度この事件については知っていましたが、改めて現地に行くとネットや書籍に書かれていない生の情報ばかり。
ルワンダ観光ではこのように気分が重くなる場所ばかり。
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