こんばんわ。わらびです。
カンボジア旅行と聞いて、多くの人が最初に思い浮かべる場所といえば、やはり「アンコール・ワット」ではないでしょうか?
エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハルと並び、世界を代表する歴史的建造物の一つとして知られています。
遺跡の見どころはまた別の記事で紹介するとして、今回は知っておくと、アンコール・ワット観光が少し楽しくなるかもしれない。
そんな知識を紹介していきます。
この記事は2026年7月時点での情報に基づき作成されています。
もくじ
誰が何のために作った?

アンコール・ワットが建設されたのは、12世紀前半のこと、クメール王スーリヤヴァルマン2世によって建設されました。
では、なぜスーリヤヴァルマン2世は、これほど巨大な寺院を建設したのでしょう?
その背景には、クメール王朝独自の王位継承事情がありました。
クメール王朝では、王家の血筋によって代々王位が受け継がれる仕組みではなく、時には有力者同士が争い、実力によって王の座を勝ち取ることも珍しくありませんでした。
歴代26王のうち、世襲で登位したのは8人しかいないとされています。
国を治めるには王の存在が不可欠でした。しかし、王位継承のルールが曖昧だったため、新たな王は自らの正当性を示さなければなりませんでした。
そこで歴代の王たちは、国家を守護するための巨大な寺院と王宮、新しい都城の3つを建設し、自らの権威を示しました。
神話の世界を地上に再現したような壮大な建造物を築くことで、王は単なる支配者ではなく、神と結びついた特別な存在であることを人々に示そうとしたのです。
アンコール・ワットもその一つであり、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌに捧げられた寺院であると同時に、スーリヤヴァルマン2世の権力と王としての正当性、自らを神格化するための建造物なのです。
アンコール・ワットに関する誤解

アンコール・ワットといえば、「数百年もの間ジャングルに埋もれていた遺跡が、ヨーロッパ人の探検家によって発見された」というエピソードが広く知られています。しかし、これは大きな誤解。
クメール王朝の都として栄えたアンコールは、1431年にアユタヤ朝の侵攻を受けて放棄されました。その後、およそ100年の間は密林に覆われた状態となります。
しかし1546年になると、クメール王朝の末裔アン・チャン1世によって再び注目され、都城の再建と住民の移住も行われました。
結局、都市の復興は叶いませんでしたが、この際、ヒンドゥー教寺院だったアンコール・ワットは仏教の寺院として整備され、以後は多くの巡礼者が訪れる仏教の聖地となります。
1860年、この地を訪れたフランスの探検家アンリ・ムオが「アンコール・ワットをヨーロッパへ”紹介”」したことで、その存在は世界中に知られるようになりました。
この出来事がいつしかヨーロッパ人によって遺跡そのものが発見されたと誤解されるようになったのです。
タ・プロームを見れば分かるように、東南アジアの気候で放置された遺跡は、カビや育成の早い植物によりあっという間に破壊されてしまいます。
我々が目にするアンコール・ワット。その壮麗な姿こそが、人々から忘れ去られることなく守られてきた証拠。
森本右近太夫が残した墨書
16世紀に入り、アンコール・ワットは仏教の聖地として広く信仰を集めるようになりました。
巡礼者はカンボジア国内だけでなく国外からも訪れ、朱印船貿易によって東南アジアへ渡ってきた日本人もこの地を参詣しています。
もっとも、当時の日本人はアンコール・ワットを祇園精舎だと考えていたようです。
また、現存するアンコールワットの最古の地図も、日本人によって描かれたものとして知られています。

回廊の柱には、1632年に日本人の森本右近太夫が残した墨書が現存しています。墨書は地上から約2mほどの高さに記されており、現在でも肉眼で確認することが可能。
当時のアンコール・ワットの壁面には、巡礼者が残した落書きがあったと考えられています。しかし、多くの参拝者が壁に触れながら行き交ったことで、地表付近の落書きは装飾も含め長い年月のうちに擦り切れた、もしくは消されてしまいました。
一方、森本右近太夫の墨書は、他の落書きと重ならないよう高い位置に書かれたため、人の手に触れる機会が少なく、約400年を経た現在まで残ったと考えられています。

他の柱を見ても、地面から手の届く範囲は、装飾も色も無くなっているのが分かります。それほど多くの人がここを訪れてきたという歴史の証明でもあります。
アンコール・ワットを未来へつないだ3人
現在私たちが目にしているアンコール・ワットは、800年以上前に造られた姿がそのまま残っているわけではありません。
菌糸類や育成の早い樹木、カンボジアの気候では遺跡はあっという間に劣化し、大きく形が崩れてしまったものも少なくありませんが、多くの研究者や保存官たちの努力によって、今日まで受け継がれてきました。
ここでは、アンコール・ワットを語る上で欠かせない3人の人物を紹介していきます。
ジャン・コマイユ
最初に紹介するのは、「ジャン・コマイユ」です。
19世紀末、インドシナを植民地化したフランスは、インドシナの歴史・考古学調査を目的とした研究機関「フランス極東学院」を設立しました。
コマイユは、その初代アンコール調査官に任命された人物であり、アンコール・ワットの発掘・保存・研究の歴史は彼から始まったといわれています。
1907年に調査が始まった当時、アンコール・ワットは深い密林に覆われ、建物の周囲には大量の土砂が堆積していました。コマイユはジャングルを切り開き、遺跡を覆っていた土砂を取り除く作業を進めます。

現在、多くの観光客が目にする開放的な景観は、こうしたコマイユの尽力によって生まれたものです。取り除かれた土砂は、参道や十字テラスとほぼ同じ高さまで積もっていたとされています。
その後、コマイユはシェムリアップ近郊で強盗に襲われ命を落としました。現在、墓所はバイヨン寺院の近くに建てられています。

アンリ・マルシャル
2人目は、同じくフランス極東学院の「アンリ・マルシャル」。
コマイユの後を継いでアンコール調査官となり、アンコール遺跡の修復と保存に生涯を捧げました。
当時のアンコール周辺は治安が悪く、任務を引き受けることをためらう人も少なくありませんでした。事実、前任のコマイユは強盗によって殺害されました。
それでもマルシャルは、身の危険と東南アジアの厳しい気候にも屈することなく全ての遺跡を調べ上げ、その功績は「マルシャルありてアンコールあり」と称えられるほど高く評価されています。
精巧な彫刻が残り、「アンコール美術の至宝」とまで称えられるバンテアイ・スレイ遺跡は彼の手によって復元されました。
石澤良昭
3人目は、上智大学教授であり、アンコール研究の第一人者として知られる「石澤良昭」です。前述のアンリ・マルシャルとも面識がありました。
石澤氏の最大の功績は、研究者としての業績だけではありません。カンボジア人の専門家を育成する人材育成プロジェクトを立ち上げ、真の意味で、再びカンボジアにアンコール・ワットを取り戻した人物です。
ポル・ポト政権とその後の内戦によって、多くの研究者や技術者が命を落とし、カンボジアは自国の力だけで遺跡を保存・修復できない状況に陥り、その命運を外国に託さねばなりませんでした。
世界各国が復興支援を行ったものの、その多くはあくまで外国主導のプロジェクトであり、本来の担い手であるカンボジア人は周縁部に置かれることが少なくありませんでした。
こうした状況に疑問を抱いた石澤氏は、「アンコール・ワットはカンボジアが世界に誇る遺産であり、カンボジア人自身の手で守り、後世へ受け継いでいくべきだ」という考えのもと、人材育成に力を注ぎます。
その結果、多くのカンボジア人修復技術者が育ち、現在では遺跡の保存・修復の中心として活躍するようになりました。
アンコール・ワットが、再びカンボジア人の手に戻った背景には、こうした長年の取り組みがあったのです。
観光する前に読んでおきたい一冊
上で紹介した石澤良昭先生の著書「東南アジア 多文明世界の発見」。
私自身、8年前に一度アンコール・ワットを訪れています。しかし当時は、この本で紹介されているような歴史的背景をほとんど知りませんでした。
今回あらためて本を読んだうえで再訪すると、同じ遺跡とは思えないほど見え方が変わりました。
本書には、ガイドさんでもあまり知らないような興味深い話が数多く紹介されており、私自身もこの本を読んで初めて知った遺跡や、その文化的・歴史的な価値がたくさんありました。
ただ建物を見るだけだった景色に、それぞれの歴史や人々の思いが重なって見えてくる。そんな感覚です。
読むことで観光に奥行きが生まれ、数々の遺跡の魅力を、より深く味わえる一冊だと思います。
おわり
アンコール・ワットは、ただ世界遺産だから見るというだけでも十分に感動できる遺跡です。
しかし、なぜ造られたのか、誰によって守られてきたのか、そしてどのような歴史を歩んできたのかを知ったうえで訪れると、その感動は何倍にも大きくなります。
8年ぶりにアンコール・ワットを訪れましたが、歴史を学んでから見る景色はまったく別物でした。石に刻まれた彫刻一つ、回廊の柱一本にも、それぞれ意味や物語があることに気づき、以前とは違った視点で遺跡を楽しむことができました。
この記事で紹介した内容は、アンコール・ワットの魅力のほんの一部に過ぎません。
ぜひ現地を歩きながら、「なぜここにこの建物があるのか」「誰がこれを守ってきたのか」を少し思い浮かべてみてください。












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