プノンペンのトゥールスレン収容所を訪問|ポル・ポト政権の恐怖を伝える負の遺産

こんにちは、わらびです。

カンボジアといえばアンコール・ワット。そしてポルポトによる恐怖政治。

特にプノンペンを観光するとなると、必然的に虐殺関連の遺構が多くなってしまいます。

今回ご紹介するのは「トゥールスレン収容所」。ポル・ポト政権下で、罪もない人々が収容され拷問が行われた悲劇の場所です。

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チュンエク虐殺センター

この記事は2026年6月の情報に基づき作成されています。
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トゥールスレン収容所(S21)とは?

トゥールスレン虐殺博物館(S21)」は、カンボジアで1975年から1979年まで続いたポル・ポト政権時代に設置された政治犯の収容所。極秘施設であったので正式な名前は無く、後に地名から今の名前が付けられました。

もともとは高校の校舎でしたが、政権によって反体制派や知識人、教師、医師、さらには政権内部で疑われた人々を尋問・拷問する施設へと変えられました。

収容された人々は、スパイや反逆者であるという自白を強要され、多くが過酷な拷問を受け、そして尋問後は郊外の処刑場であるチュンエク虐殺センターへ送られ、殺害されました。

約1万4,000~2万人が収容されたとされますが、最終的な生存者は、施設の維持に必要な技術者6名と子供が2名だけだったとされています。

ポル・ポト政権

1975年から1979年までカンボジアを支配した共産主義組織「クメール・ルージュ(オンカー)」による独裁政権。
指導者であるポル・ポトは、毛沢東の共産主義思想に心酔し、農民中心の理想社会を築こうと考え、都市文明や知識人を敵視しました。
首都であるプノンペンをはじめ全国の都市住民を強制的に農村へ移住させ、学校や病院、寺院、市場は閉鎖され、貨幣経済も廃止されました。
国民は共同農場で過酷な労働を強いられ、少しでも反対意見を持つ者や、教師・医師・公務員などの知識人は革命の敵として処刑されました。眼鏡をかけているだけで知識人と疑われることもあったといわれています。
こうした政策の結果、多くの人々が処刑されたほか、飢餓や病気によって命を落としました。犠牲者は約170万~200万人とされ、当時のカンボジア人口の約4分の1に相当します。
政権末期には隣国のベトナムとの対立が激化し、1979年にベトナム軍が侵攻。ポル・ポト政権は崩壊しました。

世界遺産「カンボジアの記憶の場:抑圧の中心から平和と反省の場へ」の構成資産

入場料

施設の入場料は5USDとなっています。

日本語のオーディオガイドを5USDで利用できるので、ここで何が起きたのか、それをより深く知るためにもぜひともご利用下さい。

地獄のポル・ポト政権。一度入ったら生きて出ることは不可能とされた、収容所からの生還者の話というのはとても貴重なものです。

所要時間

トゥールスレンは施設が当時のまま残され、多くの資料が展示されています。

オーディオガイド無しだと1時間。オーディオガイドをすべて聞きながら2時間半ほどかかります。

トゥルースレン収容所見学の様子

トゥールスレンはA・B・C・Dの4棟から構成され、それぞれ異なる展示がされています。

実際の遺体の写真など、当時の地獄を今に伝える生々しい証拠ばかり。人によっては入るのを躊躇うような場所となっています。

A棟の展示

入口付近にある白い棺。

これはクメール・ルージュ逃走後に残されていた14名の遺体が埋葬されています。彼らはいずれも身元不明。

ベトナム軍の侵攻を受けて、速やかに証拠と生存者を殺害して逃げるほかありませんでした。

まず見学するのがA棟。

ポル・ポトの理想とした共産主義国家では教育すら否定され、かつて子供たちが勉強していた校舎では、凄惨な拷問が行われることになりました。

この施設の責任者は「カン・ケク・イウ」、通称「ドッチ」。

非常に真面目で几帳面な官僚タイプの性格とされ、収容者の氏名、写真、供述書、尋問記録などを徹底的に管理し、誰を拷問し、誰を処刑するかを文書で管理していました。

S21で起きたことは、彼の承認なしにはほぼ何も行われなかったそうです。

教室には鉄製のベッドが当時のままで残されています。

これに縛り付けられ、納得のいく供述がされるまで激しい拷問が続く。

入口の白い石碑に眠る14名のうちの一人が、このベッドに手足を縛られ殺害されていました。

中庭に残された器具。

元は学校の運動設備でしたが、クメール・ルージュはこれを拷問に利用していました。

ここから後ろ手に縛った収容者を吊り下げ、真下の壺に頭を入れて窒息させる。壺に入っていたのは糞尿などの汚物です。

S21は処刑場も兼ねていましたが、すぐに埋葬場所が遺体で溢れたので、処刑場は郊外のキリングフィールドへと移されました。

B棟展示

B棟は写真展示と独房がメイン。

彼らはこのS21の職員で、10代の若者も多くいました。

多くは農村部出身の若者で何も知りませんでした。都市部の人間に対する憎しみを植え付け、クメール・ルージュにとって都合の良い兵士として育成、もとい洗脳するには丁度よい存在だったのです。

しかし、組織内の厳しい規則、疑心暗鬼、些細な失敗により多くがここの収容者になり、最終的にキリングフィールドへ送られました。

4月17日のクメール・ルージュのプノンペン入りを歓迎する人々

1975年4月17日。カンボジアにとって決して忘れることのできない地獄が始まった日。

プノンペンの人々は、腐敗した政権や貧困、米軍からの爆撃から解放されると歓喜に湧きました。しかし、この写真が撮られた数時間後、早くも農村部への強制移送が開始されることに。

当時のカンボジアでは、取材を試みたジャーナリストなど多くの外国人が消息を絶ちました。

S21だけでも、10人ほどの外国人が収容され、処刑されています。特に欧米人は問答無用でCIAのスパイと判断されていました。

ここに送られてきた人たちは、首に番号札を付けられ名前ではなく番号で呼ばれました。名前も人権もすべてが奪われました。

彼らの犯した罪、それはただ、クメール・ルージュの意にそぐわなかった。理由など無いに等しいのです。

煉瓦で区切られた独房。

それぞれのスペースは畳一枚分ほど。中にはトイレ代わりの弾薬箱とボトルが置かれていました。

生存者の証言では、独房の中に鎖で固定され、少しでも音を鳴らすと鞭で打たれ、少しでもトイレをこぼすと綺麗になるまで舐めさせられたそうです。

C棟の展示

C棟は唯一有刺鉄線に覆われ物々しい雰囲気。

これは施設からの脱走を防ぐために取り付けられたものですが、その脱走というのは‟生きて”逃げ出そうというものではありません。

多くの受刑者は、厳しい拷問に耐え兼ね、一刻も早くその命を絶ち楽になりたいと考えていたのです。

この有刺鉄線も、受刑者の一人が飛び降りをしたことがきっかけで設置されました。

所長ドッチの徹底した管理体制のため、収容者の情報は詳しく記録されていました。

S21はクメール・ルージュ政権の崩壊の翌年、1980年に博物館としてオープンし、多くの人たちが自分の家族や友人が収容されていたのではないかと探しに来ました。

雑居房だった場所。

ここに拘束された収容者がすし詰め状態で寝かせられ、身を起こすのでさえ許可が必要でした。

D棟の展示

彼女の名前は「ボパナ」さん。S21ではもっとも有名な収容者です。

彼女の婚約者はクメール・ルージュの幹部で、結婚は禁じられていましたが、村の老人立ち合いのもと密かに式を挙げていました。

二人は共に暮らすことでできませんでしたが、離れ離れでも愛し合い、本来禁止されている手紙のやり取りで近況を伝えあうなど強い絆で結ばれていたのです。

ボパナさんが子供を流産し倒れたことをきっかけに、農村から夫のいるプノンペンへの移送を願いましたが、手紙が発見され、夫とその上司もトゥールスレン送りとなりました。

収容所ではクメール・ルージュを誘惑した邪悪な女として扱われ、所長のドッチも異常な執着を示し、500枚を超える調書が書かれました。これは、S21の収容者の中では最も多いとされています。

クメール・ルージュ政権下では家族や異性を愛することは許されず、その愛は国家にのみ向けられなければなりませんでした。

ボパナさんの夫の上司は特に大きな写真で展示されている

この絵は生還者の一人ヴァン・ナットさんによって書かれたもの。ここで見たもの、他の生存者が見たものを聞いて多くの絵をかいています。

彼は芸術家で、所長のドッチがクメール・ルージュを賛美するプロパガンダに利用できると判断し生かされていました。

実際に使われていた拷問器具。この上に固定し頭に布をかぶせ、そこに水をかける。つまり水責めです。

蛇やムカデが入れられていた虫かご。体に這わせていたそうです。

字の読み書きができる、反抗的な態度を取った、理想とする人物像ではない、いやそもそも理由なんてなかったのかもしれません。

ポル・ポト政権下では、現在では考えられない理由で罪人として扱われ、凄惨な拷問を受けていたのです。

おわり

ポル・ポトがカンボジアを支配した3年9カ月。トゥールスレンに限らず各地で同じようなことが行われ、多くの人々が犠牲になりました。

日本では3年3カ月、悪夢の民主党政権なんて言われる時代もありますが、カンボジアでは、それとは比にならないほど、比喩ではない地獄の時代があったのです。

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