こんばんわ。わらびです。
カンボジアといえばアンコール・ワット。そしてポルポトによる恐怖政治。
特にプノンペンを観光するとなると、必然的に虐殺関連の遺構が多くなってしまいます。
今回ご紹介するのは「チュン・エク虐殺センター」。キリングフィールドの名で有名です。
この記事は2026年6月の情報に基づき作成されています。
1,000KHR=40円
1USD=4,000KHR
チュン・エク虐殺センター

「チュン・エク虐殺センター」は、カンボジアの首都プノンペン郊外にある負の歴史を伝える慰霊施設。
1975年から1979年にかけてカンボジアを支配したクメール・ルージュ政権下で、多くの人々が政治犯や知識人とみなされ、各地で処刑されました。チュン・エクはその代表的な処刑場の一つであり、「キリング・フィールド(虐殺の地)」として知られています。
現在は犠牲者を追悼するための施設として整備されており、敷地内には発掘された犠牲者の遺骨を納めた慰霊塔が建てられています。
また、当時の出来事を解説する展示や音声ガイドも用意されており、カンボジア現代史の悲劇を学ぶことができます。同じくプノンペン市内にあるトゥールスレン虐殺博物館とあわせて訪れることで、クメール・ルージュ時代の実態をより深く理解できるでしょう。
観光地というよりも、平和の尊さと歴史の教訓を後世に伝える重要な場所です。
世界遺産「カンボジアの記憶の場:抑圧の中心から平和と反省の場へ」の構成資産
アクセス方法
キリングフィールドは市内中心から15km南にあります。
トゥクトゥクだと片道20,000KHR=5USDくらい。
路線バスの11Bで近くまでアクセス可能。
バイクをレンタルしていく場合は駐輪代が1,000KHR=40円。
入場料
施設の入場料は6USD。
料金には音声ガイドが含まれています。
所要時間
施設の敷地内はそこまで大きいという訳でもなく、建造物もほとんど残されていません。
それでもオーディオガイドの全項目を聞くとなると2時間ほど必要になります。
キリングフィールドの様子

かつて凄惨な悲劇が繰り広げられたとは思えないほど穏やかな空気の流れる場所。これがキリングフィールドの現在です。
敷地の中央にある慰霊塔を除けば建造物はほとんど残されていません。
クメール・ルージュの逃走後、周辺住民が施設を解体し建材として再利用したためだそうです。
想像もできないほど悲惨な出来事があった場所、普通であれば、このような場所から何かを持ち出すなど躊躇われることでしょう。
しかし、そのようなことに躊躇していられる余裕もないほど、ポル・ポト政権下で国民たちは貧困に苦しみ、激しい憎しみを抱いていたのです。

市内にあるトゥールスレン収容所から運ばれてきた人がここで降ろされ次々と処刑されていきました。
その数は2万人にも上るとされています。
この地に収容所が作られた理由は、もともと中国人墓地があり、あまり目立たない場所にあったため。
虐殺は、あくまで秘密裏に行われていたので、クメール・ルージュ逃走後にやってきた周辺住民が埋められた大量の遺体を発見しました。


周囲にはサトウヤシの木が生えています。
木の幹はかたくてギザギザ。キリングフィールドではこの木の幹で収容者の首を切り裂き処刑することもあったとされています。
これはカンボジアの農民が鶏を絞める時の方法でした。

収容者の処刑は木の幹以外にも農機具などで行われました。
銃弾が高すぎるため、そのような手近な道具が処刑の方法に選ばれましたが、残虐で強い苦しみを与えるものばかり。
クメール・ルージュの構成員は、無知な農村部出身の若者が多く、都市部の知識層は理想とする共産主義社会の敵と教え込まれ、収容者に対して激しい憎しみを抱いていました。
収容者たちは、激しい拷問により犯してもいない罪を自白させられ、時として、他人も自分と同じ罪人だと偽りの供述をさせられていました。
多くはその苦しみから逃れるため、死を選ばざる負えない状況にまで追い込まれていたのです。



犠牲者たちが埋められていた穴。
元は5mもの深い穴でしたが、半世紀以上かけ土砂が流れ込み殆ど埋まっています。
発見当初は、腐敗したガスで地面が膨れ上がっていたとされ、雨季になると遺骨や衣服が露出することもあります。
キリングフィールドでも有名な木

これはおそらく、キリングフィールドでは最も有名なのではないでしょうか?
この木は「キリングツリー」と呼ばれ、この木に対して赤子が何度も叩きつけられて殺害された場所。
これを最初に発見したのは近くに住む住民で、ジャガイモを引き抜くと地面から異臭が噴出し、この木に何かを叩きつけた跡と血痕を見つけ、何があったのか気づき恐怖したそうです。
赤子の殺害は、母親の目の前で行われることもありました。
クメール・ルージュのスローガンの一つ、「雑草を引く抜くなら根っこから」。
将来の反乱分子、復讐の芽を残さないために、物心のついていない赤子でさえ処刑の対象にされる。そして残虐非道な殺害方法は周囲の者への見せしめにもなりました。
犠牲者の慰霊塔

敷地の中央にそびえる慰霊塔。
屋根の四方にはガルーダとナーガが置かれ塔を守護しています。
神話では敵対する二つの神。それらが一つの塔を守護する姿は犠牲者の鎮魂と平和を象徴しています。

塔に安置された遺骨は性別や年齢ごとに分け17層に分けて安置されています。
「17」という数字は、クメール・ルージュがプノンペンに入った日。
ロン・ノルによる腐敗政権、米軍による爆撃、飢餓と貧困、苦しみにあえぐ多くのカンボジア人が新政権の誕生に希望を抱いた日でもあり、想像もできないほどの地獄が始まった日でもあります。
ここで発見された遺体はすべてが身元不明。発見されたときには既に腐敗しきり判別不明の状態でした。
驚くことに、これほどの大規模な虐殺にも拘らず、クメール・ルージュは収容者の個人情報をしっかりと記録していたとされています。
その情報は拷問により引き出された嘘の記録ではあるが、自らの行いの正しさを証明するかのように、情報を記録することに執着していたのです。

ここで起きたことは今や過去の事。
今更できることなど何もありませんが、せめて花を供え、犠牲者の安らかな眠りを祈るくらいでしょう。
おわり
かつてカンボジアで起きた惨劇の跡地。ここで見ることができるのは各地で起こった出来事の一端にすぎません。
当然ですが訪れると悲しく陰鬱な気分になってしまいます。
観光では楽しい思い出を作るのが理想だと思うので、苦手な人は行く必要はないと思います。
「知らなきゃいけない」、「後世に伝えなければ」とか言う人もいるでしょうけど、それは別に私たちの義務ではありませんしね。







1975年から1979年までカンボジアを支配した共産主義組織「クメール・ルージュ」による独裁政権。
指導者であるポル・ポトは、毛沢東の共産主義思想に心酔し、農民中心の理想社会を築こうと考え、都市文明や知識人を敵視しました。
首都であるプノンペンをはじめ全国の都市住民を強制的に農村へ移住させ、学校や病院、寺院、市場は閉鎖され、貨幣経済も廃止されました。
国民は共同農場で過酷な労働を強いられ、少しでも反対意見を持つ者や、教師・医師・公務員などの知識人は革命の敵として処刑されました。眼鏡をかけているだけで知識人と疑われることもあったといわれています。
こうした政策の結果、多くの人々が処刑されたほか、飢餓や病気によって命を落としました。犠牲者は約170万~200万人とされ、当時のカンボジア人口の約4分の1に相当します。
政権末期には隣国のベトナムとの対立が激化し、1979年にベトナム軍が侵攻。ポル・ポト政権は崩壊しました。